遊女の略説

  1. 洲崎の栞
  2. 遊女の略説

我が国に遊女と曰ふものが初めて文献に顕れたのは人皇第四十五代聖武天皇の御代であるが其の前にも勿論あつた。

其の時代には遊君又は遊裙と曰うて酒間をあつせんした。 万葉集にも遊行女婦、阿曾比女。 宇加禮女等の事がある。降て鎌倉時代となり、建久四年五月十五日には遊女別当なる新官職を設けられた。此れ我が国の公娼妓制度の第一歩であつた。曾我物語にも「化装坂の少将大磯の虎喜瀬川の鶴亀は海道一の佳人なれば云々」の事がある。足利の末期には傾城局を設け遊女一人に付き一年十五貫文づヽの税を賦課徴集した事もある。

然して最も殷賑を極めたのは江戸新吉原である。新吉原の沿革は茲に書く必要は無いが当時色事は吉原の専売の様な観があつた。従つて名妓と称するものも少なくなかつたか其の内代表的のものに高尾等がある。幕末となつて外船の来航兵乱の兆頻りなりしにより遊廓も多少哀頽に傾いた、明治元年京橋築地に外国人居留地を開設せらるゝや新吉原中万字屋の楼主宗田彌兵衛等は会津征代軍用金と、して五万両の冥加金を上納し開廓を許されたから、其の附近現今の京橋新富町に遊廓を開設し新島原と名附け繁昌を極めたか或る理由の許に明治四年七月限り廃絶した理由とする処は新吉原から苦情か出たとか外人に利用されるとか曰ふ事である。