遊廓を貸座敷と改称

  1. 洲崎の栞
  2. 遊廓を貸座敷と改称

話は横道に這入るか遊女屋即ち遊廓と曰ふ名称が貸座敷と代つた事を話すのも無駄でなからうと思ふから茲に一寸話をする、 遊廓と云ふ名称が貸座敷と代つたのは奴隷解放事件から来た、 奴隷解放事件と云ふのは明治五年六月廃藩置県で横浜に神奈川県と云ふのが置かれ県令として陸奥宗光県権令として大江卓県参事として高木久成と云ふ人が乗り込んだ、 其の時季節的な巽巳の暴風が荒れ廻つたので南米ぺルーの船マリヤルース号が横浜に逃け込んだ。

或る夜此の船から一人の支那人木慶と曰ふ男か逃け出して勇敢にも海を泳いで附近に碇泊して居た英艦アイロンデユリ号に泳ぎ着いたさうして支那人は我れ我れ同胞二百三十八人はべルーの船長に誘拐されて奴隷としてベルーに輪送される途中であるが何とかして救助して貰ひたいと哀訴した。

此の時我が政府では外務省副島種臣が主任で英国公使の意見と同じく其の奴隷を解放して支那に返還することになり其の旨を神奈川県に命じた、そこで大江県権令が国際裁判を行ふ事にした領事団から文句はあつたが一切於かまひなし我が領海内に起つた事件であるから我が国法に照して裁判するが当然たと曰うて領事団に於かまひなしに種々障害はあつたが結局その奴隷を解放することになつた

大江県権令は得意になつて居ると、米国領事が日本にも奴隷があるのでないかと冷かされた、大江県権令はいやそんなものは日本に無いと云ふと米国領事はそんなら教へて上げ様か遊廓の娼妓は明瞭に人身売買でないかと極め付けられ大江県権令もこれにはぐつと詰つた然しそんな事で怯ひ様な大江でない直く政府と相談すると政府も其の儘にして置けないから明治五年十二月二日大政官布告第二百九十五号に於て娼妓解放令を全国に発した。

その条文中に

一、娼妓芸妓等年季奉公人一切解放致ス可ク右ニ就テノ貸借訴訟総テ不取上候事

更に九日司法省もこれに関して省令第二十二号て布達を発した 其の中に

一、娼妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナクズ人ヨリ牛馬ニ物ノ弁済ヲ求ムル理ナシ

此れか有名な牛馬ときほとき令である。

遊廓から解放された遊女は何れも遊廓を後に出て行つた然してこの解放令は破天荒な断行には相違なかつたか単に国際関係の行掛りから人身の売買を禁じ娼妓を解放したまゝであつて廃娼でなかつたそして大江県権令は高島嘉右衛門に相談すると高島は何んとかしませつとそれから直ぐ高島町の一角に新らしい遊廊の建築が初まつた。   従来行はれた奴隷の如き小女の売買は行はれず遊興せんとする男女の為め座敷を貸すだけであると云ふので貸座敷と曰ふ新らしい名前が出来た、従つて遊廊は貸座敷として全国に復活したものである

東京府達でも次の様なものか出て居る。

一、遊女致度望ノ者、印鑑可申受事

一、是迄ノ遊女屋渡世ハ渾テ貸座敷卜相心得印鑑右同断

壬申十月八日 東京府知事大久保一翁

当局は妓楼を貸座敷と改称し現在の待合茶屋の如く単なる座敷の提供に止め貸座敷に稼ぎに出る事勝手なるべしとした、即ち出稼娼妓の語か生した所以である。