娼妓取締規則の制定

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  2. 娼妓取締規則の制定

明治五年の解放令後東京府は警保寮と合議の上左の府令を発した

府令第百四十五号

市在区々戸長

近来市街各所ニ於テ売淫遊女体ノモノ増殖候哉ニ相聞第一風俗倫理ヲ傷其俵難差置筋ニ付自今吉原、品川、新宿、板橋、千住、五ケ所外ニ於テ貸座敷竝娼妓ニ紛敷所業决シテ不相成候、且貸座敷屋、娼妓、芸妓等規則別紙ノ通相違候条、此旨屹度可相心得候事

◎ 但シ根津ノ儀ハ兼テ願済年眼中差置候事

明治六年十二月十日

東京府知事 大久保一翁

以上の如く冒頭し、貸座敷渡世規則、娼妓規則なるもの発布せらる 其の内容を見るに年季解放の旨意を遵守すベし

毎月鑑札料若干(五円)を納むべしとあり

金銭を浪費するものは便近邏卒屯所番人詰所に出訴するものとす

等あり

娼妓規則中には十五才以上の婦女にして本人の真意より娼妓稼業を出願する者は云々本籍に照合しと身元調査の規定を設け毎月鑑札料若干(二円)を納むと記し更らに毎月両回医員の検査を受け病毒を隠して客の招聘に応することを許さず等健康診断を規定し其の末尾に江戸期の連座刑を附記しあり

即ち

前略(戸長町用掛竝地所差配人迄乞屹度可申付間此同和心得事)

其の他幾多の変遷を経て、明治三十三年十月内務省令第四十四号を以て現在の娼妓取締規則が発布せられた。

其の条文中に娼妓の名簿削除申請に対しては何人と雖も拒ひことを得ずと云ふのかあるので勝手に廃業が出来ると云ふ事を或る者が宣伝した為め所謂自由廃業なるものが一時流行となり廃業したものが多数あつた、然し其の結果は女に取りて余り良くなかった、其の当時に於ける東京府下の自由廃業の統計を見るに左の通りである。

三十三年自九月至一二月 六一八
三十四年 三二七
三十五年 二九八
三十六年 二四九
三十七年 二○三
三十八年 二八九
三十九年 一九八
四十年 一七一
四十一年 九五

尚内務省令発布と同時に警視庁令を以て貸座敷引手茶屋、娼妓取締規則が発布になり其の第二十七条に組合は正副取締各一名を選挙し所轄警察署に届出認可を受く可しと云ふ規定あり、従来は元締と称せしものなり、然して本組合に於ける開設以来の正副取締は

正取締 副取締
大八幡楼 岡村文吉 大松葉楼 渡会庄平
本金村楼 北村栄蔵 亀楼 亀井鉄次郎
北川楼 北川栄次郎 新八幡楼 遠藤竹次郎
大八幡楼 岡村文吉 梶野楼 梶田信太郎
武蔵楼 佐藤惣平 遠江楼 篠原鶴吉
梶野楼 梶田信太郎 梅川楼 渡辺梅吉
大八幡楼 中村常蔵 本鶴楼 高橋覚次郎
藤松葉楼 藤井三郎 梶野楼 梶田信太郎
房金楼 須藤末次郎 若松楼 小林倉吉
花井楼 蒲生義雄 梶野楼 梶田信太郎
甲子楼 金山吉五郎 萩原楼 渡会会助
梅川楼 渡辺梅吉 田中楼 田中乙吉
田中楼 田中乙吉 本住吉楼 田口貞之助
中梅川楼 宮田浜太郎 新八幡楼 並木文四郎
平野楼 平野幸三郎 米住吉楼 中村米次良
鳥海楼 島海重次郎 米住吉楼 中村米次良
米住吉楼 中村米次良 北梅川楼 平田栄太郎
米住吉楼 中村米次良 兼若松楼 山口清次
兼若松楼 山口清次 花の崎楼 秋庭孫太郎
米住吉楼 中村米次良 千代梅楼 舘山松太郎
北梅川楼 平田市太郎 大野楼 大野留一
米住吉楼 中村米次良 大野楼 大野留一
三睛 山口清次 徳梅川楼 井上唯助
米住吉楼 中村米次良 藤吉楼 難波四郎
栄住楼 金田栄助 三富楼 坂倉茂三郎
栄住楼 金田栄助 三富楼 坂倉茂三郎