洲崎の移転

  1. 洲崎の栞
  2. 洲崎の移転

洲崎は明治二十一年六月本郷根津より移転したもので東京市最東端の埋立地である。

此の埋立は市制施行以前であつて、東京府が計画し佃島の監獄から囚人を連れて来て埋立たもので明治二十一年に竣工した。市制施行と共に市長の管理となり借地料を定められた。

当時の借地料は表通り一坪一ヶ月金五銭同裏通り一坪当り金三銭堤敷坪当り一銭と云ふ事であつた。

洲崎遊廊に就ては其の前身根津時代を物語る必要がある。

元来根津には天保の頃宮永町に遊女屋三十二局見世と称するもの凡そ百軒あり又八重垣町藍染町にも遊女屋があつたが天保十三年水野越前守改革のとき各岡場所は一時取払ひを命ぜられたが根津及四宿の遊女屋は其の禁を免かれたかくして幕末となり一時始んど廃絶の状態となつた徳川幕府が遊廊は吉原一地に限る、政策を取つた関係上外に遊廊と云ふものがなかつた根津を遊廓と呼び初めたのは何つ頃か娼家か初めて許可になつたのは何つ頃か最初の軍医総監松本順氏の口述になる「蘭疇」には慶応三年末から翌四年の春迄の事のやうになつて居る維新後明治三年四月大松葉楼主渡坂清吉等東京府より五年限りの允許を得妓楼を建設した。

明治七年満期に際し同区戸長より更に遊廓の永続を東京府に嘆願し再び其の允許を得たが後当局は四園の状況により移転の必要を認めて洲崎埋立地に移転を命せらるゝに至つた。

当初根津に許可した当局の理由は年月を期し此の地に遊廓を許可したのは不毛の地を拓いて宅地となすの便利を図るもので将来遊廓を永続せしむるの目的でないされど今は此の地都府の中央に位して家屋接続し特に上野公園、帝国大学等遊廓の四方を環し復た往年の如き僻隅の地でない、一時の情実にとらはれて此れを置く事は行政の得策でないとしても俄に退去を命するときは営業者が忽ちに其の生活に迷ふの患あるものとし、此の後三年間、即ち明治二十年六月を期し之を禁止するを命令せんとしたもので当局は再三東京府と協議明治十七年二月廿五日本郷区役所に命じて二十年十二月限り根津遊廓を禁止することゝなり、茲に於て現在の深川洲崎に移転する様になつた。

根津より移転した時は貸座敷九十七軒、引手茶屋四十四軒、娼妓九百七十四人でありた、大八幡、甲子、松葉、新八幡、本金村、大松葉、常盤、出金村、港楼等が根津以来の大店である。

根津より移転し来りし貸座敷と引手茶屋は

貸座敷

大八幡 新八幡 大松葉
松葉 亀楼 甲子
房金 大ユク 河内
北川 豊八幡 本ツル
相八 並八 出金
菊武蔵 清水 大磯
成島 中八幡 新三河
あさひ 新海老 藤松
梶野 三河 成八幡
もり本 高橋 新山木
茗荷楼 本金村 湊楼
大美 大鶴 富士見
若竹 松田 宝来
スカタ 東屋 新常盤
荒川 鶴金 大垣
辰八幡 鈴八幡 鈴木
花井 文葉 美濃や
網や 福島 山田
新住吉 米荒川 村松
定常盤 相楼 ふじ本
新岩本 松キン 岩村
ふじ 玉清海 大島
若藤 清常 福田
常陸 長谷川 延松
俵ヤ 新河内 長八幡
中野 清八幡 新金
新北 春常盤 埼玉屋
伊豆屋 吉たか 菊松葉
待八幡 中石 中村
大松 新梶野 常盤
武歳屋 乾楼 磯松葉
北村 高尾楼 亀田屋
徳島楼    

引手茶屋

兼八 金村 巴や 木村
河内 遊亀八 松本 仲若
吉八 吉田 山形 豊甲子
大和 喜久本 甲子 岡本
吉村 平泉 峯八 岩本
向八 相模 玉や 八重金
長亀 大阪 梅本 橘八
関根屋 トキ八幡 秀八 山喜
大三 万松葉 中村 若金村
金八幡 糸八幡 菊八幡 三河
菊松葉 福本 忠八 芳八幡

四十四軒なり

根津より洲崎に移転した引手茶屋は四十軒であつて六月三十日付移転当日の記録には四十四軒とあるも四軒は洲崎に移転と同時に開業したものある、芸妓は長吉、春吉ネーさん外百三十八名、半玉は桃太、長太、当八、吉八、を筆頭に四十六名幇間は二代目梅川三孝初代遊孝、花孝、勝孝、梅孝、〆孝、治孝、米孝、七平等十六名

当時の芸妓屋組合顧問は渡辺喜久平氏である。

食類は寿司八、寿司平、寿司竹、三元、三柳、魚安、

蒲焼屋 大和田、鳥渡屋、直八

水菓子屋 水重、水兼

ソバ屋 杵松

菓子屋 八幡堂、二葉屋

酒屋 高崎屋、相模屋

雑貨商 山田屋、小池屋

本調査は高崎彌三郎氏所蔵の明治二十一年六月二十一日出版洲崎弁天町遊廓真図并に大作庄太郎氏所蔵の明治二十一年八月十日印刷幾英筆東京名所のうち、洲崎弁天町遊廓真けいに依る。

根津遊廓の開設に就て功労者の第一人者として渡阪清吉氏を挙けねはならぬ、渡阪氏は元来仕立屋なりしも遊芸を好み極めて剛腹なりしを以て明治三年遊廓の開設に際し卒先当局と折渉し遂に功を奏し允許を受く渡阪氏も営業を開始し大松葉楼と称す、其後前述の如く洲崎移転に際しても尽力する処大なりしが移転後三年を経すして或る事情の許に営業一切の経営を女婿渡会庄平氏に委任自分は隠居するに到れり。

次に根津から附て来た親分即ら現在の紹介営業者(寄子)は岡野屋(男雇人)辻岩(女雇人)の二軒である。此の親分なるものかとうして出来たか根津か遊廓と云ふ様になつた頃、雇人の気が荒くて喧嘩争論の絶間がなかつた、そしてどうしても此れを取締る人が必要になつて来た当時上州沼田の浪人に永井直太郎異名武士直と云ふ男が居た、此の男に頼んて取締ることにすると武士直も相当の腕利たと見へて此の荒ぽい男を卸して行つた。それがいつとなく其の支配下に集り親分の名称が出来た此れか初代岡野屋で二代は弟の永井良太郎が親分となつたが洲崎に来る事をきらつたと見へて然も洲崎移転の六月三十日に黄泉に旅立をした。

三代は永井シナ女だから中西時三郎が後見人で四代は澄之助此れは病気で廃人となり五代は永井謄太郎だが小供たから現在の秋庭孫太郎氏が後見人となつて居る。

当時移転の状況を目撃せる古老の語る処に依れば

大八幡楼

鱗の模様揃各自に○に八を染めた日傘をさし娼妓は黒塗の高さ一尺位の下駄を穿き娼妓と新造と二人にて二人乗に乗り車夫は娼妓の妓名を染めた件天を着し其の他芸妓、幇間此れに附し車百七十八台と云ふ。

甲子楼

日傘に甲子と入れた揃をさし車は百十二台とある。

本金村楼

日傘に○に三ツ柏、二人乗りにて百三十八台

大松葉楼

行列の内大松葉が一番派手なりと、大松葉楼は五階建の大建築をなしたるも其の後営業不振の為め廃業せり

根津を出て御徒士町を通り日本橋小網町より思案橋を渡り永代橋を過ぎ、洲崎に来りしものにして六月三十日の未明より数百輛の荷馬車にて数回往復し翌七月一日の朝まで要し人力車以外のものは多く馬車にて移転せり。

本郷の車にては当底間に合はず、下谷浅草を主体とし京橋、日本橋、牛込、神田遠くは四ツ谷辺まで車を狩り集めしものなり。

然して移転当日は大八幡、甲子の如き正装をなしたる美人が二人乗りの車に乗り揃の日傘を各自に持ち数百台の車が連行する模様は実に壮麗なりしものにして物見高き東京の事であるから其の日洲崎附近の道筋に見物人蝟集し、立錐の余地なかりしと曰ふ。

地獄大夫 まぼろし

大松葉楼渡阪清吉方の妓なり

初め二代目盛紫と名乗り吉原の妓なりしが明治九年根津大松葉の抱となる、大松葉楼の抱となる時は已に二十五歳を過ぎた姥桜であつたが口元の締つた細目の容色は何と曰うても幾百の男を引きつけずには置かなかつた、好んで髑髏を書いた仕掛けを用ゐた為めに誰れ曰ふとなく地獄太夫と曰ふ様になつた。

名声は可成高かつたが明治十一年廃業して弁護士某の妻となつた其の後京橋八丁堀に住んで居たが其の弁護士の氏名を逸した事が残念である。

彼女が平素用ひた仕掛けは何れも芳年と曰ふ若き書家の手になり、 其の彩色は当時卓絶したものだと曰はれて居る。嘗て此の髑髏に百鬼夜行の姿を配した仕掛けを着し芝増上寺に無間の鐘をつかんとした事があるが何かの故障の為め実現はしなかつた様だ。才色共に絶世の地獄大夫が芳年の妙筆になる髑髏の仕掛けを着た処は思ふだに心すく様な気がする。

彼女が無間の鐘をつく様な気になつた事は何故か仏に無間とは八熱地獄の一つで、無間地獄には最悪非道の人間が落ちて行く処である、即ち大夫は百八つの鐘をつき一切の煩悩を断ち現世の罪障を消滅せんとしたものである。