移転当時に於ける警察署の記録には貸座敷九十七戸、引手茶屋三十戸とあるも明治二十一年六月二十一日出版の洲崎弁天町遊廓真図なる錦書によれば貸座敷に大八幡を筆頭に百十一軒、引手茶屋四十四軒である。
其の後十五年を経たる明治三十五年には一号地に百三軒二号地に井筒楼初め八戸あり、引手茶屋は依然として四十四軒あつか。
試に三十年前に逆上つて日露戦争当時の統計を見るに左の通りである。
年度 | 貸座敷数 | 引手茶屋数 | 娼妓数 |
三十六年 | 一二三 | 三八 | 一、三二四 |
三十七年 | 一三一 | 三六 | 一、四五六 |
三十八年 | 一四二 | 三五 | 一、五一四 |
三十九年 | 一六三 | 三三 | 一、七八一 |
四十年 | 一七八 | 三三 | 二、〇一三 |
明治四十年末の調査に依る雇人数左の如し
貸座敷 男八八〇女六三一 計一、五一一
引手茶屋 男二七女九六 計一二三
娼妓 男四四女七二 計一一六
明治四十一年八月吉原は貸座数の数二〇四戸、娼妓二、九三七名にて当時の入院患者数は洲崎一六九、吉原二七九、其の後十五年を経たる大正十一年度には貸座敷数三〇二、引手茶屋二三娼妓二、二一二、となり、昭和十一年度末には貸座敷三二三引手茶屋一三、娼妓二七九九となり引手茶屋の衰微に反し貸座敷は益々発展の状態にある。