洲崎は前にも述べた通り東京市最東端に埋立をした場所であつた 関係上其の当時のさむしさは今日では殆んど想像が出来ない。 勿論今の様にチンチン鳴る電車も無ければ景気の良い自動車も無い、 てくが大多数で後は人力車と船である船は屋根舟と猪牙舟と新橋洲崎間の汽船であり人力車は随所に車宿があり辻には辻車と称する、常に客待ちをして居たものがあつた。辻車にに相当の者も居た様だが其の話は必要ないから茲では略すことにする。
明治三十七年頃日本橋茅場町を出て黒江町今の永代町二丁目を通つて本所方面に行く電車が出来た、明治四十四年七月には更に富岡門前町まで延長された、其の当時は人力車賃黒江町から洲崎迄拾二銭であつたと云ふ事である。大正七年頃の景気の良い時代には弱い者でもも月百円少し強い者になると二百円位は稼いだと云ふ話しだが此れは皆んな酒代に変化した様だ。
其の後市電は沢海橋(今の警察の前)迄来て沢海橋から遊廓内まで人力車賃は拾銭であつた、電車布設前の木場通りは道が狭くて夕刻なぞは人力車で一杯になつて人が通れなかつた程であつた。
大正十二年の震災後は区割整理で道路は改正され文字通り四通八逹の有様である、乗物としては電車の洲崎早稲田間錦糸堀を出て洲崎を廻り東京駅方面に行くものあり砂町方面より来る城東電車の終点もある、乗合自動車は東京市営のもの東京乗合自動車会社経営のものあり共に東京駅廻り新宿方面に到るもの銀座を経て東京駅に到り又洲崎に来るものあり更に城東自動車会社の経営になる洲崎を出て本所三ツ目通りより鶯谷に到るものあり其の他、果しなき円タタの進入により正に乗物としては遊廓中東京第一の観がある、此れを明治二十一年移転当時の東京随一の不便の場所と比較して考へる時実に感慨無量である。