根津時代の検徽

  1. 洲崎の栞
  2. 根津時代の検徽

娼妓健康診断の経緯については前章に述ベたが多少重複の傾はあるが洲崎の前身根津時代の模様に対して参考まで記して見様。

明治六年六月

前略 検徴会所を吉原、根津(中略)等ノ各所・一設ケ検徴委員ヲ置キ毎月三回、四回各会所ニ派出セシメ娼妓ヲ診察シ有毒者ハ愛宕下町東京府病院ニ移養セシム

以上は東京府下徴毒病院の始めにして根津なる文字が法規の上に顕はれたるものである。

明治九年三年二十二日第七十号娼妓徴毒検査規定中に

前略 正副元締ハ検査ノ雑務及患者ヲ病院ニ送迎スル周施ヲナス

新タニ娼妓タランコトヲ願フ者ハ徴毒ノ有無ヲ検査ス

本則ニ背反シ及ヒ怠慢失誤アル者ハ三回以下ノ罰金ニ科ス

茲に於て法規上に元締なる文字を見、新に申請するものに対し検診 を施行し違反者に対し処分の規定を設けた。

明治九年四月五日内務省は省令第四十五号を以て

伝染病毒の最も酷属ナルモノハ徴毒ヨリ甚ダシキハナク(中略)

是事タル衛生上最大緊要ニ属スルヲ以テ速に方法ヲ施設シ其ノ周到ヲ期セシム

以上の如き通達に依り各検徴所を警勵した。

明治十一年一月二十八日

前略 貸座敷所在地ニ徴毒検査所ヲ置キ医員ヲ派出シ左ノ日子ヲ刻シ検徴ニ従事セシム

月曜日 吉原

火曜日 根津

水曜日 品川

木曜日 新宿

金曜日 千住宿

土曜日 板橋宿

以上に依り検査日を定む

更に二月十四日稼業を休廃する娼妓に対しても亦検黴を行ふ旨の規定を設けた。

明治十三年八月二十六日

前略 本郷警視黴毒病院ヲ設置ス(第八拾七号)

茲に初めて本郷病院を真砂町に設置され同年九月三日院長及副院長の任命がある。

即ち警視雇戸上親宗ヲ本郷黴毒病院長トナシ警視雇小木元蔵ヲ副院長ト為ス

同年十月二十五日副院長ノ転出アリ、本郷黴毒副院長小木元蔵ヲ芝警視病院第一分局長ト為シ警視雇倉次春樹ヲ副院長心得ト為ス

同年十一月十日

本郷黴毒副病院長心得倉次春樹ヲ浅草病院当直医トナス

明治十四年一月十四日

警視雇有賀琢一ヲ本郷黴毒病院副院長ト為ス

明治十五年三月十五日

麹町黴毒病院ヲ廃シ従来同院ニ管理セシ事務ヲ本郷黴毒病院ニ併セ麹町黴毒病院長田代弘、副院長勝沢儀一、本郷黴毒病院副院長有賀琢一ヲ免シ本郷黴毒病院長戸上親宗ヲ副院長ニ移シ警視御用掛安井清儀ヲ本郷黴毒病院長ト為ス

明治二十二年九月十五日ノ決議中ニ

新吉原、洲崎弁天町(中略)六ケ所ニ黴毒検査所ヲ置キー週日ゴトニ娼妓ノ黴毒ヲ検査ス

茲に初めて洲崎弁天町と云ふ文字顕はれ一週間に一回と規定せられたり、移転当時は入退院共本郷真砂町まで人力車により往復したもので其の不便は今更記す迄の事はない。