洲崎病院は明治二十一年六月本郷区根津より遊廓の移転と共に深川区洲崎弁天町一丁目十六番地へ移転新築したもので 当時の建坪は四百余坪である。 明治二十二年七月一日私立驅黴院と称す、 此れ洲崎病院の濫觴である。
明治三十三年五月洲崎弁天町二丁目十六番地に於て患者三百名を収容する予定を以て六百余坪の病院を新築し之に移転した次いで明治四十二年大出水に際し多大の被害を蒙り為めに大修理を加へられた。明治四十四年四月一日三業組合は病院の建造物全部附属品一切を挙げて警視庁に寄附し爾来警視庁の所管に属す。
明治四十四年七月二十五日海嘯の襲来に依り病院建物は大破損を蒙り海岸に近き治療室浴室、病室及其の他の建造物を全潰せるを以て病舎一棟を滅し直ちに復旧工事に着手し明治四十五年三月完成す。(延坪七百六十二坪二合五勺)更に大正六年九月三十日夜半襲来の大海嘯により大なる被害を見、直ちに復旧工事に着手し大正七年三月落成(延坪七百七十五坪)越へて大正十一年二月隔離室三十二坪を増築したるも大正十二年九月一日の大震火災に依り全部を烏有に帰し全く三業組合より寄附したる病院は形跡だに見るを得ざるに至りた。
大正十二年十二月一日同地に仮病院二百十四坪の建築完成したるも貸座敷の復興するに従ひ院舎の狭隘を来し。大正十三年八月更に病院の増築をなした大正十四年三月五日西平井町より発した火は当廓内に延焼し病院も又其の厄を蒙り院舎全焼したるを以て病院は一時借家をなし大正十四年三月十二日中村米次良氏所有家屋洲崎弁天町一丁目十番地二階建バラックを之れに充て治療を開始し大正十四年五月三十一日同人所有家屋洲崎弁天町二丁目十六番地に新築る二階建に移転した、其の後大正十四年四月工事を興し洲崎病院本建築工事に着手大正十四年十二月二十五日竣工を告けたるもの現在の洲崎病院なり。
病院所在地 | 深川区洲崎弁天町二丁目十六番地二号 東京市有地 一千五百五十一坪二合五才 |
建物 | 本館、鉄筋コンクリート |
第一階 | 四百五十五坪一勺七才 |
第二階 | 四百十坪四合三勺六才 |
総建坪 | 九百参拾二坪七合三勺七才 |
患者収容者 | 二百二十七人 |
一、健康診断執行日 | 月、火、水、木、金、土 |
一、健康診断執行日数 | 三百六日 |
一、健康診断延人員 | 十二万四千六百四十九名 |
一、入院患者数 | 二千三百九十七名 |
一、入院一日平均数 | 七人八分強 |
一、健診百ニ封スル入院割合 | 一人九分二厘強 |
一、在院患者延人員 | 七万二千八百四十五名 |
一、在院患者一日平均数 | 二百名弱 |
黴毒 | 一二名五強 |
淋病 | 六六名四弱 |
軟下 | 一八名一強 |
剥脱 | 三名強 |
計 | 百名 |
初代 | 院長 | 警視庁衛生技師 | 藤原道雄 |
医長 | 警視庁衛生技師 | 徳永覚二 | |
同 | 高橋毅一郎 | ||
二代 | 院長 | 同 | 阪本理朝 |
医長 | 同 | 吉永元三郎 | |
三代 | 同 | 同 | 徳永覚二 |
同 | 同 | 吉水元三郎 | |
四代 | 同 | 同 | 宮下精一郎 |
同 | 同 | 小島信 |
以上の諸氏である。